以前、お送りさせていただいた方ですが、
太平洋戦争に召集され、満身創痍で帰国の
途につき、100歳近くまで生き抜かれ
往生された方ですが、お骨を拾わないという
選択をされました。
それは、多くの仲間が海に散って行き、骨を
拾ってやる事も出来なかった。
それと遺された者に負担をかけたくない!
と言う想いからの、遺言だったそうです。
お骨を拾わないとどうなるのか?
市の合同墓地に合祀されます。
しかし、重要なのは火葬場によってルールが
違う事です。
収骨する、しないは法律で決められている
のではなく、火葬場のルールで決まります。
お骨を拾わなくてよい火葬場とそうではない
火葬場がありますので、事前に確認する
必要があります。
そしてもう一つは宗教的にお骨を拾わなくても
良いのか悪い事なのか?それも大切なことです。
そんな様々な条件をクリアして、はじめて
お骨を拾わないという選択ができます。
お骨を拾わなければ、お墓の心配も
お参りも必要ありませんが、果たして
それだけで良いのか?考えさせられます。
お墓を建てない方が増えているのは、
そもそも、何故なのでしょう?
負担になるから?無縁仏になるから?
実はその前の段階に問題があると思います。
「ご先祖様に手を合わす」昔はよく耳に
しました。
小さい頃から、その習慣さえ教えてあげれば
お墓がどんなに辺鄙な所にあろうがお参りに
行き、そこで感謝をし、次の活力源になる
のでは?
そんな習慣が薄れて行き、「負担」に
置き換わっているだけのような気がします。
人生色々、御供養も色々です。
以前、あるお寺の掲示板にこんな文言を
目にしました。
「先祖が迷っているのではない!己の心が
迷っているのだ!」と
先祖供養やお墓参りは、自分の不幸を
改善するためのお願いではなく、感謝の
想いをご先祖様に伝え、その熱い想いを
次の最愛の方達へ伝えて行く事では
ないのでしょうか?
太平洋戦争で地獄の戦火を潜り抜け、
多くの仲間を亡くし、仲間の分まで生き抜き
全て分かった上のご自分の御供養の方法を
遺されたのだと思います。
これからの合理的な御供養の方法も大切です。
それは、本来在るべき供養の真髄を
語り継ぎ、知った上で考えるべき事だと
私は思います。
感謝。