「信教の自由」——それは日本国憲法が保障して
いる、最も基本的な人権のひとつです。
私たちはどの宗教を信じてもいいし、信じなくても
いい。
仏教でも、キリスト教でも、神道でも、何でも
ないという生き方でも。
他人から強制されることなく、自らの心で
「信じる」を選ぶことができます。
この「自由」は、あたり前のように見えて、
実はとても尊いものです。
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【人は心の拠り所を必要とする】
私達の仕事は、亡くなった方を送り出す「葬儀」
を執り行うことです。
葬儀の場面では、仏式・神式・キリスト教式・
無宗教…
あらゆる信仰と向き合います。そして、どの儀式
にも共通しているのは、「残された人の心を癒し、
故人の魂を見送る」という祈りの姿勢です。
人は、愛する人を失った時、目に見えない何かを
求めます。
「また会えるだろうか」「どこかで見守って
くれているのか」そんな問いに、答えを与えて
くれるのが、宗教の教えだったり、心の信仰
だったりします。
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【信仰は押しつけるものではない】
しかし、信仰とは本来、他人に押しつけるもの
ではありません。
たとえ自分が強く信じている宗教があっても、
それを他人に強要してはいけない。
また、他人の信仰を否定することも、同じく
してはならない。
それが「信教の自由」の意味です。
信仰は「自由な心」から生まれるものであって、
「支配の手段」になってはならない。
だからこそ、信仰には“寛容さ”が必要なのだと
思います。
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【宗教を越えて、人を思う】
宗教の違いを越えて、心が重なる瞬間があります。
それは、悲しみの中で手を合わせる時。
誰かの無事を祈る時。
苦しむ人にそっと手を差し伸べる時。
それが「人としての信仰」なのではない
でしょうか。
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【信仰の形は、人の数だけある】
ある人は仏に手を合わせ、ある人は空を見上げ、
ある人は心の中の誰かに語りかける。
どれも間違っていません。
正しい・正しくないを決めるのではなく、
「その人の心の支えになっているか」が大切なの
だと思います。
信教の自由とは、他人を許し、自分を信じる自由。
だから私達は、これからも、どんな宗教であっても、
その想いに敬意を持って接したい。
そして、目の前の一人ひとりの「祈り」を大切に
していきたいと思います。

感謝。