「露のみはここかしこに消えるとも
心は同じ花の台ぞ」
この法然上人のお歌は、儚い命の真実を
見つめながらも、阿弥陀如来の救いと
再会の希望を示す深い教えが込められて
います。
歌の意味と背景
このお歌で詠まれる「露」とは、
人間の命そのものを指しています。
朝に草葉に宿る露は、日の出とともに
消えていくその姿から、命の儚さや
無常を象徴するものとして古来より
用いられてきました。
法然上人は、この「露のみ」の部分で、
我々人間の命がいかに儚く短いもので
あるかを指摘しています。人は生まれては
消え、あちらこちらで数えきれない
ほどの人が亡くなっている。そのような
無常の現実を見つめ、受け入れることが
仏教の教えの根本でもあります。
しかし、この歌がただ無常の悲しさを
詠むだけのものではないことが次の
部分で明らかになります。
阿弥陀如来と蓮の台(花の台)
「心は同じ花の台ぞ」という後半部分では、
命が消えゆく運命にある私たちで
あっても、心(信仰)は決して儚く
消えることはないと説かれています。
阿弥陀如来を信じる者の心は、死後、
西方極楽浄土の蓮の花の上で再び花開く
とされています。この蓮の花(花の台)
は、浄土教で極楽浄土に咲く清らかな
蓮華を象徴するものであり、阿弥陀如来の
慈悲により救われた人々がそこで再会できる
という希望を示しています。
仏教の教えと希望のメッセージ
このお歌は、無常の中に生きる人間の
悲しみや孤独に対して、仏教の教えが
与える「救い」や「再会の希望」を端的に
表現しています。
1. 命の儚さを知ることの大切さ
私たちの命は、朝露のように短く、
いつ消えるか分からないものです。
しかし、命の儚さを知ることで、
限りある時間を大切に生きる姿勢が
生まれます。
2. 阿弥陀如来への信仰
儚い命であっても、阿弥陀如来を信じ、
念仏を唱えることで、極楽浄土で再び
会えるという確信を持つことができます。
この教えは、亡き人への悲しみを癒し、
生きる希望を与えるものです。
3. 再会の約束
家族や大切な人を失った悲しみは
計り知れませんが、この歌が伝える
ように、仏教では「死別は永遠の
別れではない」とされています。
信仰によって、極楽浄土で再び会う
ことができるという希望が語られています。

感謝。